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安宅の関跡
あたかのせきあと
石川県小松市安宅町ヨ132
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安宅町は古くから日本海の要港として栄えました。藩政時代は藩の米倉がおかれ「酒屋千軒寺千軒」といわれるほど賑わったそうです。 |
| 安宅の関跡は日本海に面した小高い砂丘上にあり、松林に囲まれています。ここは歌舞伎十八番勧進帳の舞台となった関なのです。 |
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文治3年(1187)源頼朝に追われた義経一行がこの安宅の関にさしかかりました。安宅の関守は富樫左衛門秦親でした。山伏に姿を変えた一行に疑惑の目で厳しく尋問したのでした。 |
| 弁慶はその疑いを晴らすため、機転を利かせ懐の中の白紙の巻物を取り出して、勧進帳を空読みし「不動の見得」を切ったのです。それでも疑心の目で見られているので錫杖で義経を殴って難を逃れたというものです。 |
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この時の義経の勇気、弁慶の智略、富樫の仁義をたたえ、勇仁智と掲げられた「弁慶・富樫問答の像」が建てられています。昭和41年に日展作家都賀田勇馬によって制作されました。歌舞伎の7代目松本幸四郎と2代目市川左団次をモデルにしたそうです。 |
| 平成7年には義経の像も完成しました。この像は都賀田勇馬の息子さんの都賀田但馬の制作だそうです。 |
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安宅関所館もあります。義経一行の名場面が等身大の人形で再現されています。梯川(かけはしがわ)河口の一帯は安宅海浜公園と整備され安宅関所資料館などもあります。 |
与謝野晶子が安宅に訪れた際に詠んだ歌碑です。
松たてる 安宅の砂丘 その中に
清きは文治 三年の関 |
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安宅住吉神社
あたかすみよしじんじゃ
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義経一行が安宅のこの住吉神社で休憩したともいわれています。境内の「弁慶の逆植の松」と呼ばれる大きな松は有名です。難関突破のお守りを出しています。 |
香林坊
こうりんぼう
| 香林坊という地名は還俗した比叡山の僧香林坊からきているそうです。向田家に嗣子に入り向田香林坊と称したそうです。 |
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香林坊は目薬を発売し、藩主前田家へ献上するなど、評判と信用を高めたそうです。香林坊の死後、代々香林坊喜兵衛を襲名しこの地で長く繁栄したそうです。 |
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| 日本銀行金沢支店 |
| 今や香林坊とそれに続く片町界隈はファッションビルや飲食店が建ち並ぶ金沢一の繁華街となっています。 |
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金沢城
かなざわじょう
石川県金沢市丸の内
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金沢城は加賀百万石を築き上げた前田利家の居城です。平成13年(2001)に菱櫓、橋爪門続櫓などが復元、整備され、金沢城趾は金沢城公園として生まれ変わりました。 |
| 文明年間(1469〜86)ここには空堀や柵などを備えた尾山御坊(金沢御坊)と呼ばれる加賀一向宗の本願寺の本拠地があり加賀国を支配していたそうです。 |
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天正8年(1580)織田信長の命により、柴田勝家らの軍勢がこの尾山御坊を攻め落とし、同年勝家の甥である佐久間盛政が入城しました。百姓一揆に備えここを修築して尾山城と改名したそうです。 |
| 盛政は3年間城主を務め城郭の整備を進めました。城は当初、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に位置していましたが、盛政は蓮池堀を掘って台地から城地を切り離し、輪郭を築き金沢城の基礎となったのです。 |
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賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れてしまいます。尾山城主の盛政は捕らえられ処刑されてしまいました。天正11年(1583)北陸制圧に功のあった能登七尾城主であった前田利家が入城したのです。 |
| 秀吉は利家に加賀、能登、越中の三国を与えたのでした。利家は金沢城と命名し加賀百万石の本城となったのです。これ以後14代300年前田家は存続し明治を迎えました。 |
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天正15年(1587)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近は食客として前田利家のもとにいました。右近の指導のもと、本格的な城郭の建設が始まりました。 |
| 文禄元年(1592)利家の子前田利長が再び城の改造を行ないました。天守閣は落雷によって焼失したため三階櫓が建造されました。慶長7年(1602)の火災でその櫓も焼失してしまいました。それ以後は二の丸が藩主の居所となったようです。 |
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明治8年(1875)陸軍第7連隊が金沢城址に置かれました。明治14年(1881)火災により石川門と三十間長屋を残して焼失してしまいました。
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| 明治31年(1898)陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで軍都金沢の象徴でした。昭和24年(1949)戦後新設された金沢大学のキャンパスとなりました。平成7年(1995)金沢大学が郊外に移り、平成13年(2001)金沢城公園として生まれ変わったのです。 |
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百間堀
ひゃっけんぼり
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百間堀跡地です。金沢城では最も幅が広く、規模の大きい外堀です。別名蓮池堀ともいわれ金沢御堂陥落後の天正8年から11年(1580-1583)の間に造られました。寛永期に辰巳用水が城内に導水されたことで、本格的な水堀として整備されました。 |
石川門
いしかわもん
| 兼六園と向かいあって建つ石川門です。金沢のシンボルにもなっている建築物で、国の重要文化財に指定されています。石川郡の方を向いていたので「石川門」といわれたようです。 |
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入口を鉄門で仕切り、内側は周りを石垣で区切った枡形(ますがた)門です。二層の菱櫓(ひしやぐら)と多門を組み合わせてできています。 |
| この石川門は天明8年(1788)に再建されたものです。宝暦9年(1759)の宝暦の大火で城内のほとんどの建物が焼失していたのです。この石川門の石垣は右と左で積み方が違うそうです。 |
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右側は「切り込みハギ」左側は「打ち込みハギ」の技法になっているそうです。同じ場所で違う積み方をしためずらしい箇所だということです。 |
| 金沢城の瓦には鉛が使用されています。戦時には鉄砲の弾として使うことを想定していたようです。また、屋根にかかる雪の重さを軽減するためともいわれています。 |
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金沢城跡には石川門だけではなく三十間長屋も国の重要文化財に指定されています。三十間長屋は宝暦大火で焼失し、安政5年(1858)に再建されたものです。 |
| 城内に金沢大学があったころ、三十間長屋は、一時、図書の保管蔵として使われていたそうです。昭和41年(1966)から43まで解体修理されました。 |
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兼六園
けんろくえん
石川県金沢市兼六町
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特別名勝の兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭だったそうです。水戸の偕楽園や岡山の後楽園とともに、日本三名園の一つに数えられています。 |

| 延宝4年(1676)5代藩主・綱紀(つなのり)が城内に蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周りを蓮池庭(れんちてい)という庭園にしたのが作庭の始めだといわれています。 |
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文政5年(1822)12代藩主斉広が自分の隠居所「竹沢御殿」を建て、回遊式の広大な庭園造りを始めました。庭には辰巳用水を取り入れた曲水を作り、各種の石橋を架けたのでした。 |

| 奥州白河藩主の松平定信こと白河楽翁(らくおう)にこの庭園の命名を依頼しました。楽翁は中国宋時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた洛陽名園記の中の「園甫の勝、よく兼ね能はざるもの六あり。宏大に務むれば幽邃少なし、人力すぐれば蒼古乏し、水泉多ければ眺望難し」から兼六園と名付けたのです。 |
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宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼備するという意味でその素晴らしさがにじみ出ています。 |
| 霞ケ池の北岸に徽軫灯篭(ことじとうろう)があります。琴の弦を支えている柱(琴柱)に似ていることから付けられたそうです。まさに兼六園のシンボルです。 |
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北前船を30隻近くも持っていたという豪商の木谷藤右衛門(きやとうえもん)が十二代藩主斉広(なりひろ)に献上したものといわれています。この灯籠のすぐ近くの曲水の流入部に虹橋が架かっています。 |
| 徽軫灯篭は水面を照らすための雪見灯籠の変形だそうです。高さ2.6mあります。脚のアンバランスがかえって趣を与えてくれます。 |
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唐崎松 からさきのまつ
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13代藩主斉泰(なりやす)が琵琶湖畔の唐崎から種を取り寄せ実生から育てたといわれる黒松です。枝が霞ケ池の中に浮かんでいるように見えます。 |
| 11月1日から雪づりをはじめます。北陸に冬の訪れを告げる風物詩となっています。 |
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霞が池 かすみがいけ
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霞が池は兼六園の中心部にあります。永遠の繁栄を願って作られた兼六園一大きな池です。広さ5800平方mあります。 |
| 池を中心にして栄螺(さざえ)山、内橋亭、徽軫灯篭、虹橋、唐崎松、蓬莱島などの各名勝を配置し、廻遊しながら庭景を楽しめるよう園路が巡らされています。 |
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内橋亭 うちはしてい
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茶室の内橋亭です。栄螺山(さざえやま)を背景に霞ヶ池のほとりに浮んでいるようです。昭和40年(1965)に再建されています。 |
眺望台
| 幾重にも重なり合った山々のはるか彼方に、白山の山並みの稜線が美しく見えます。卯辰山、戸室山、医王山の山々を望むことができます。 |
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市街地の向こうには加賀平野が広がっています。日本海、 能登半島などを望むことができます。 |
雁行橋 がんこうばし
| 11枚の石を使って雁が列をなして飛んでいる姿を表わしていることから雁行橋といわれています。 |
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別名亀甲橋ともいわれます。石の1枚1枚が亀の甲の形をしているからです。この橋をわたると長寿を保つといわれています。 |
七福神山
| 12代藩主・斉広が、竹沢御殿から眺める庭園として作庭したそうです。七つの自然石を、七福神になぞらえ、恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁財天にみたてています。 |
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福寿山ともいわれるこの七福神山は、曲水、築山、雪見灯籠など、当時の雰囲気をそのままに伝えています。 |
日本武尊像
やまとたけるのみことぞう
| 日本武尊は古代の英雄で伝説の皇子です。銅像の身長は5.5メートルで、 日本で最初に建てられた銅像と言われています。台石の高さは6.5mです。セメントなどを使わず石の重さだけで組み合わされています。 |
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根上がりの松
ねあがりのまつ
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15mほどの黒松です。13代藩主斉泰(なりやす)が稚松(わかまつ)を盛土の上に植え、徐々に土を除いていったそうです。多くの根が露出して地面から盛り上がっています。松の生命力と値上がりに通じて縁起がよいので珍重がられたそうです。 |
辰巳用水
たつみようすい
| 寛永9年(1632)犀川から取水し、ここから城内へ木管により通水されました。天保15年(1844)石管に取り替えられたそうです。辰巳用水は金沢城のための用水でした。 |
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松の傷
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兼六園の松の傷は戦時中の昭和20年(1945)閣議決定された松根油等拡充増産計画の名残です。全国の松から年間40万キロリットルの松根油を生産し航空機を飛ばすというものでしたが成果は上がらなかったようです。 |
舟之御亭 ふなのおちん
| 5代藩主・綱紀により蓮池庭作庭の際に造られた4亭の一つです。平成12年(2000)に時雨亭と共に復元されました。 |
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船の形をしています。藩政時代の絵図にも描かれているそうです。現在は、梅林のそばに建てられています。 |
夕顔亭
| この夕顔亭は園内で最も古い建物で、安永3年(1774)に建てられた茶室だそうです。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透し彫りがあるので夕顔亭という亭名がつけられたそうです。 |
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瓢池 ひさごいけ
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瓢池は池の中ほどがくびれて瓢(ひょうたん)の形をしているのでその名がつけられています。百間堀からこの辺一帯は藩政時代以前から池や沼があったらしく蓮池の名前が残っています。 |
| 兼六園と名づけられるまでは蓮池庭と呼ばれていたそうです。園内で最も古く、兼六園の作庭はこの一帯から始まったものだといわれています。 |
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翠滝 みどりたき
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翠滝は高さ6.6mの雄大な人工の滝です。安永3年(1774)11代藩主前田治治脩(はるなが)が蓮池庭を改修し現在の翠滝と夕顔亭を作ったそうです。まわりの樹木は紅葉の名勝である滝田、高尾、小倉山などから移植したそうです。 |
海石塔
| 瓢池の島にある高さ4.1mの塔は六重の塔で、虫が喰ったように穴のあいた淡茶色の笠石が積み重ねられています。この笠石が海石に似ていることから海石塔と呼ばれています。 |
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加藤清正が朝鮮の役の際、戦利品として持ち帰ったものを秀吉に贈り、それが利家に贈られたといわれています。 |
噴水
| 文久元年(1861)に作られた日本最古の噴水です。3.5mの高度差を利用しています。 |
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明治4年(1871)に、名を「與楽園・よらくえん」と変えられ、その後「兼六公園」(明治7年)、「金沢公園」(大正11年)となり、旧称の「兼六園」に戻されたのは大正13年(1924)でした。
現在は「文化財指定庭園 特別名勝」の指定を受けています。 |
成巽閣
せいそんかく
石川県金沢市兼六町1-2
| 文久3年(1863)加賀藩13代藩主斉泰(なりやす)が母真竜院(しんりゅういん)の隠居所として建てられたのが成巽閣です。金沢城からみて巽(たつみ)つまり東南の方向にあることから巽御殿と呼ばれました。 |
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真竜院こと隆子は12代藩主斉広の正室でした。京都の鷹司政照(たかつかさまさひろ)の息女でした。鷹司家は辰巳殿と呼ばれていたこともこの名前が付けられた要因の一つだと思われます。 |
| 一階は整然とした武家書院造りです。二階は天井や壁、床の間に意匠を凝らした数奇屋風書院造りとなっており、二つの様式をたくみに取り入れ調和のとれた建物となっています。 |
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敷地は6600平方メートル、建て面積約1000平方メートルもあります。柿葺(こけらぶき)で、1階には大名書院造りの謁見の間、広間、入側(いりがわ)、茶室などがあります。 |
| 2階には群青(ぐんじょう)、書見(しょけん)、網代(あじろ)、越中などの各間があります。色彩と花島の意匠を散りばめ細部まで贅をつくしています。 |
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主屋は昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されています。昭和13年(1938)には国宝に指定されていたそうです。庭園も名勝に指定され、煎茶席三華亭、辰巳長屋、土蔵は石川県の重要文化財、中庭は県指定名勝となっています。 |
| 明治になり成巽閣と改められ、金沢工業学校の仮校舎や金沢博物館に使われた後、前田家の別邸となったそうです。幕末大名屋敷の女性の住居を代表する貴重な遺産です。 |
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石川護国神社
いしかわごこくじんじゃ
石川県金沢市石引4-18-1
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石川護国神社ははじめは招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあったそうです。明治元年(1868)越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵103名の霊魂を祀るため金沢藩知事(加賀14代藩主)前田慶寧(よしやす)が建立したそうです。 |
| 後の西南の役や日清・日露戦争の戦没者も合祀しています。卯辰山の境内は狭かったため昭和10年(1935)に旧陸軍小立野練兵場の一隅であったこの場所に新殿建立したそうです。 |
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昭和14年(1939)、石川護国神社と改称したそうです。大東亜戦争までの神霊も合わせて祀っているそうです。鳥居の奧に見える「大東亜聖戦大碑」は世論を二分しているそうです。 |
石川県立美術館
いしかわけんりつびじゅつかん
石川県金沢市出羽町2−1
| 明治9年(1876)金沢博物館として設立されました。昭和58年(1983)兼六園に隣接されて開館したようです。加賀藩主前田家に伝わってきた文化財は前田育徳会展示室に公開されています。 |
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加賀蒔絵や九谷焼をはじめとする古美術品や、人間国宝を中心とした伝統工芸作品、石川県ゆかりの作家を中心とする現代作品などを展示しています。 |
| 野々村仁清の最高傑作の色絵雉香炉(いろえきじこうろ)は昭和26年(1951)国宝に指定されここに展示されています。 |
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美術の小径
びじゅつのこみち 石川県金沢市出羽町
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美術の小径は石川県立美術館から中村記念美術館へと続くところです。豊かな緑の中に辰巳用水の分流が滝となって流れています。内田康夫の「金沢殺人事件」の舞台にもなっています。 |
藩老本多蔵品館
はんろうほんだぞうひんかん
石川県金沢市出羽町3-1
| 兼六園の南には藩老本多蔵品館があります。代々加賀藩の筆頭家老を務めた本多家に伝わる武具や調度品、古文書などを展示しています。本多家随一の家宝といわれる「村雨の壺」を展示しています。 |
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村雨の壺は、5万石の加増を固辞したかわりに2代藩主前田利長から拝領したといわれています。本多家の初代政重の名刀「磨上無銘(みがきあげむめい)」も有名です。鎌倉末期から南北朝時代頃の備前国兼光作の太刀だそうです。 |
石川県立歴史博物館
いしかわけんりつれきしはくぶつかん
石川県金沢市出羽町3-1
| 石川県立歴史博物館は旧金澤陸軍兵器支廠でした。赤煉瓦の3棟の建物で平成2年(1990)重要文化財に指定されています。第1棟は大正3年(1914)に建てられ旧第7号兵器庫でした。 |
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第2棟は大正2年(1913)に建てられたもので旧第6号兵器庫でした。第3等が一番古く明治42年(1909)に竣工され旧第5号兵器庫だったそうです。 |

| 終戦後の昭和21年(1946)金沢美術工芸大学校舎として使用されていました。昭和47年()石川県が譲り受け、昭和61年(1986)石川県立歴史博物館となったそうです。 |
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煉瓦造り2階建てで左右対称を基本とした端正な意匠になっていて長さは90mもあるそうです。 |
| 石川県を中心に北陸地方に関する縄文時代から近代までの人々の暮らしや文化を展示しています。 |
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本多の森公園
ほんだのもりこうえん
石川県金沢市出羽町、石引、本多町
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兼六園の南側にある総面積4.7ヘクタールの県営公園です。緑濃い森でおおわれ、森の中には石川県立歴史博物館、石川県立美術館、能楽堂をはじめとする文化財や文化施設が集まっている文化ゾーンになっています。 |
| 加賀藩の筆頭家老、本多家の屋敷があった場所で戦後は金沢市立美術工芸大学の学校用地だったそうです。 |
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黒門前緑地 旧高峰家
きゅうたかみねけ
石川県金沢市丸の内5−16
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この緑地は、平成7年(1995)まで、金沢地方検察庁検事正官舎の敷地でした。平成13年(2001)官舎の一部と、その土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、湯涌町江戸村に移築保存されていた郷土の偉人高峰譲吉博士の住家の離れを移築したものです。 |
| 高峰譲吉博士はアドレナリン、タカジアスターゼの創製に成功した人です。旧高峰家は、明治5年(1872)加賀藩の御典医(ごてんい)であった譲吉の父が建てた居宅の一部で、書斎、茶室として利用された「離れ」にあたります。 |
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尾崎神社
おざきじんじゃ
石川県金沢市丸の内5-5
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寛永17年(1640)に幕府から東照大権現の勧請を許された加賀4代藩主前田光高(みつたか)が、幕府の御大工木原木工允の設計により、翌々寛永19年(1642)に金沢城北ノ丸に起工し、翌20年(1643)に奉祀しました。 |

| 東照権現堂と呼ばれていましたが明治6年(1873)の神仏分離令が出されたため翌年の明治7年(1874)尾崎神社と改めました。明治9年(1876)に金沢城内が陸軍省用地となったため現在地へ移転させられました。 |
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移転料がわずか600円しか交付されなかったため現存するこの建物だけしか移転できなかったそうです。徳川幕府に気を使った光高が建てた徳川家康を祭神にした東照宮だけに廃棄された他の建物が惜しまれます。 |
| 本殿や拝殿、中門は内外部とも漆を塗ってあり、彫刻や装飾が施されています。極彩色で、錺金具を打ち、日光廟の仕上げを模して華麗です。国重要文化財にも指定されているのです。 |
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金沢21世紀美術館
かなざわ21せいきびじゅつかん
石川県金沢市広坂1-2-1
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金沢21世紀美術館は、都市の中心部に十分なスペースのあるゆったりとした公園のような美術館です。世界の同時代の美術表現に市民とともに立ち会う場所なのです。 |
| 市民や産業界など様々な組織と連携を図って、全く新しい活動を試みています。 |
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妙立寺
みょうりゅうじ
石川県金沢市野町1-2-12
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日蓮宗の正久山妙立寺は別名忍者寺と呼ばれています。寛永20年(1643)加賀3代藩主前田利常が藩を守護する祈願所として建立しました。 |
| 幕末期には12代藩主斉広夫人の真竜院に崇敬されていたそうです。外から見ると何の変哲もない2階建ての寺ですが、中へ入ると4階建て7層複雑な建築構造をしています。23の部屋と29の階段があるそうです。 |
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堂内は迷路のようになっていて隠し階段、落とし穴、隠し部屋、二枚戸など様々な仕掛けが隠されています。妙立寺は北陸街道の要衝にあり事に備えて造られたものでしょう。 |
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